森の奥、湿った土の匂いの中に、血の錆びたような鉄の臭気が混じっていた。
ニコは巨大な戦槌を肩に担ぎ、重い足取りで歩を進める。自身の背丈ほどもある異様な武装には、幾重もの黒い革帯と鉛の封印具が念入りに巻きつけられ、一見すればただの無骨な建築資材か荷物の塊にしか見えない。
「……終わった」
口にしたのは、感情の削ぎ落とされた共通語だ。
発声する者の脳波と声帯に干渉し、個人の癖や情動の起伏を強制的に均してしまう統制言語。この森を抜けた先に広がる境界街メマサマランも、さらにその先の都市群も、すべてはこの均一な言葉によって灰色の規律へと塗り潰されている。
ニコの口から出る共通語もまた、外見上は平坦な音節の羅列に過ぎない。だが、かつて世界の果てで『始原の災厄』を浴びた彼の脳髄だけは、中央教導院の言語統制に完全には染まりきっていなかった。平坦な単語の隙間に、彼自身の皮肉や溜息が消せないノイズとして混じるのを、ニコ自身も持て余していた。
拠点へ続く小道が見えてきた時、ふいに背中の戦槌が熱を帯びた。
ごうん、と鈍く重い金属音が、これまで聞いたことのないリズムで背骨に木霊する。
ニコは足を止めた。戦槌の内部――強固なはずの多重封印の奥底で、かつてない異常な震えが走り、彼の肩を強引に引き裂こうとしていた。
ただの魔力漏出ではない。背中の塊が、まるで生きている獣のように特定の方向を指し示して脈動している。
ニコは短く息を吐き、その鈍い振動を羅針盤に変えた。拠点への小道を逸れ、鬱蒼としたシダの茂みを踏み抜いていく。
乾いた枝を折る音を立て、ニコが木々の切れ間へ躍り出たとき、その先で陰惨な対峙が起きていた。
灰色の制服を纏った教導院の追手たちが、追い詰めた獲物をなぶり殺そうとしている。
標的である「人柱」は、冷たい泥の中に組み伏せられていた。引き千切られた白い装束の隙間から覗く素肌には、精緻な幾何学めいた紋様が刻まれ、荒い呼吸に合わせてかすかな翠色の光を帯びている。手首には砕けた拘束具の残骸が食い込み、血と泥が混ざり合っていた。
ニコは迷わず割って入った。
「退け」
短く放った共通語とともに、ニコは肩に担いでいた戦槌の石突を無造作に泥濘へと突き立てた。
ズン、と地面の底が抜けたような重低音が森の空気を震わせる。
追手たちが弾かれたように振り返り、魔導銃剣の切っ先を向けた。だが、ニコが戦槌に添えた指先から一歩を踏み出した瞬間、追手たちの動きが凍りついた。
教導院の特務部隊が用いるような精緻な概念術式ではない。幾重もの鉛で封じられた神話級の質量と、かつて無数の死線を踏み越えてきた古き英雄の剥き出しの覇気が、大気そのものを物理的な圧力へと変えて追手たちの脳髄を直接揺さぶったのだ。
共通語によって感情を平坦に慣らされ、生存本能すら鈍磨していた末端の兵士たちの神経が、突如として目の前に現れた「圧倒的な死の質量」を処理しきれずに悲鳴を上げる。追手のひとりが威嚇の叫びを上げようと口を開いたが、その声帯は震えることもなく、ただ間抜けな呼吸音として肺の空気を漏らしただけだった。
部下たちが次々と膝をつき、酸欠の魚のように白目を剥いて泥の中へ倒れ伏す中、ニコは唯一踏みとどまっていた指揮官の襟首を片手で掴み、無造作に引きずり上げた。
指揮官は恐怖に顔を歪め、奥歯を鳴らしているが、見下ろすニコの瞳には何の色も宿っていない。
「目的を言え。何故、この人柱を追う」
平坦なはずの共通語の奥に滲む、底冷えするような殺気。指揮官は首筋を締め上げる鉄万力のような腕力と窒息しそうな圧迫感に抗えず、掠れた声で吐き出した。
「……じ、上位指令だ! 脱走した人柱の紋様から『波形』を回収し、共通語による完全管理下に置く……! 秘儀からの逃亡は秩序への反逆だ、抵抗すれば抹殺しろと……!」
ニコはわずかに鼻で笑った。
「管理、か。随分と気楽な仕事だな」
「お、お前も……共通語の恩恵を知っているはずだ! この摩擦のない平穏な社会が、何によって守られているか……!」
ニコは指揮官の言葉を最後まで聞かず、戦槌の分厚い鉛の柄頭で男の胸当てを軽く小突いた。
「俺が守っているのは社会じゃない。ただの、歩きにくい道だ」
くぐもった衝撃音が防具を貫通し、指揮官は声すら上げられずに意識を刈り取られ、泥濘の中へと沈んでいった。
追手がすべて昏倒し、夜の森に静寂が戻った。
ニコは立ち上がり、泥にまみれたままの人柱を見下ろす。長命種特有の、年齢の知れない端正な顔立ち。だがその翠色の瞳は、まだ何が起きたのかを理解できず、罠にかかった幼獣のようにおびえきっていた。
人柱は引き千切られた装束の胸元を必死に掻き抱き、後ずさりしながら震える唇を開いた。
「……〈ramel Rassovel ne〉!」
夜の空気を震わせたのは、驚くほど澄み切った、けれど今にも泣き出しそうなほど張り詰めた異言の旋律だった。
その言葉が何を訴えているのか、翠響語を持たないニコには分からない。ただ、泥だらけの頬を歪めて首を横に振る必死な形相だけが、何らかの痛切な拒絶を物語っていた。
しかし次の瞬間、ニコの耳元に引っ掛けられた安価な量産型の翻訳魔導具が、微弱なノイズとともにその生の声を塗り潰し、冷徹な機械音声へと上書きした。
『〈通告:当該物品ハ規格外デス。返品処理ヲ要求シマス〉』
ニコは眉間の皺を深くし、耳元の魔導具を指で軽く叩いた。安物の結晶回路がジジ、と不快な音を立てる。
「……ずいぶんと行儀のいい悲鳴だな。古物商の帳簿でも読み上げているのか」
ニコが問いかける。だが、その共通語の問いかけもまた、人柱の首筋に残された検体用の翻訳首輪を通すことで、意味を成さない『単調な水滴の落下音のような事務的ノイズ』へと変換され、人柱の耳を冷たくすり抜けていった。
言葉は通じない。互いに相手の発する音が、壊れた魔導具によって歪められていることだけは分かった。
ニコは大きく溜息を吐き、腰のポーチから無骨な金属製の水筒を取り出した。栓を抜き、しゃがみ込んで人柱の目の前に差し出す。
「……飲め」
放たれた共通語は、やはり規則的なノイズに過ぎない。だが、ニコが水筒を差し出し、泥を拭った指先で人柱の顎を少しだけ持ち上げるという「動作」は、どんな言葉よりも遥かに雄弁にその意図を伝えていた。
人柱は恐る恐る両手で水筒を受け取り、ひび割れた唇を当てて渇いた喉を潤した。冷たい水が喉を通り抜けるたび、張り詰めていた肩の震えが少しずつ収まっていく。
その姿を見届けてから、ニコは立ち上がり、背中の戦槌に軽く手を添えた。
「行くぞ」
その一言もまた、人柱には無意味な雑音だ。しかし、ニコが背を向けてゆっくりと歩き出し、数歩進んでは振り返ってこちらを促す――その繰り返される不器用な動作に、人柱は「この灰色の言葉を話す男について行けば、少なくともここよりは安全かもしれない」という直感を抱いた。
やがて森の木々が夜の闇をいっそう深め、古い廃墟の陰に熾された小さな焚き火だけが二人を照らし出した。
周囲には虫の声ひとつなく、冷たい夜霧が崩れた石壁を撫でていく。灰色の規律に塗り潰されたこの世界で、誰の目も届かず、誰からも顧みられない空白の暗がりだった。
ニコは木の枝で焚き火の火力を調整しながら、背中の戦槌に意識を向けた。
すぐ傍らでは、泥を落とした人柱が静かに膝を抱えている。
その瞬間、ニコの背筋が冷たく震えた。
戦槌の封印が、人柱の素肌に刻まれた紋様と呼応している。
二人の物理的な距離が近づくほどに、それは確かな「熱」となって大気を伝播した。ニコにとっては、封じ込めたはずの自身の過去を抉るような鋭い痛覚。そして人柱にとっては、凍えた身体の芯をゆっくりと溶かすような、微かな温もり。
「……〈masaman nenel sasiel zemum〉」
パチパチと爆ぜる炎に細い指先をかざしながら、人柱がぽつりと呟いた。
歌うように柔らかく揺れる異国の音節。その響きにどんな意味が込められているのか、やはりニコには知る由もなかった。ただ、炎の照り返しに揺れるその横顔が、ほんの少しだけ穏やかに緩んだのが見えた。
その直後、ニコの耳元の魔導具が、またしても空気を読まない合成音を吐き出す。
『〈報告:燃焼効率ハ適正範囲内デス。燃料ノ追加ヲ推奨シマス〉』
「……そうかい。お前が火加減にうるさい奴だっていうことは分かったよ」
ニコは苦笑を噛み殺し、薪を一本、火の中へ放り込んだ。
立ち昇る火の粉の向こうで、ニコは無言で人柱の横顔を見た。人柱もまた、戦槌から伝わる熱い拍動を感じ取ったように、訳もなくニコの瞳を見つめ返していた。