第2話 硬い肉、あるいは歌森への望郷

読了目安:約4分(2,313字)

 翌朝、ニコが拠点にしている森の古びた石造りの小屋には、香ばしい脂の焼ける匂いが立ち込めていた。

 粗末な木のテーブルを挟んで、ニコと人柱が向かい合って座っている。

 隅の寝台脇にはあの巨大な戦槌(ポールハンマー)が立てかけられており、分厚い鉛の封印具の下から、人柱の呼吸に合わせるような微弱な共鳴熱を絶えず放っていた。

 

 ニコは無言で鉄鍋から干し肉のソテーを木の皿に取り分け、硬い黒パンと一緒に人柱の前へ押しやった。

 人柱は、昨夜ニコから貸し与えられた大きすぎる麻のシャツの袖を握りしめ、警戒と戸惑いが入り混じった翠の瞳で皿の上の肉を見つめている。誰かと一つの食卓を囲むという行為そのものに慣れていないのか、その細い肩は小刻みに強張っていた。

 

「食え。毒は入っていない。入れるほど暇じゃない」

 ニコが平坦な共通語(コモン・コード)に、隠しきれないぶっきらぼうな息遣いを混ぜて告げる。

 人柱の首筋に残された検体用の翻訳首輪がピピ、と無機質な電子音を鳴らし、ニコの声を乾いた砂が擦れるような事務的ノイズへと変換した。言葉の意味はやはり通じない。だが、ニコが自分の皿の肉をフォークで突き刺し、無造作に口へ運んで見せたことで、「食べていい」という意図だけは伝わったらしかった。

 人柱はおずおずと木のスプーンを取り、温かなスープと肉を口にした。

 塩気と獣脂の強い味を噛みしめるように、人柱の喉が小さく鳴る。

 

 すると突然、その翠の瞳が大きく揺らいだ。

 ぽろり、と長い睫毛から大粒の涙がこぼれ落ち、木の皿へと落ちていく。

「……っ、〈ramel Sasiemsaman nanelmil〉!」

 スプーンを握りしめたまま、人柱が喉を震わせて叫んだ。

 声の波形が激しく乱れ、壁際の戦槌がごうん、と低く呼応する。人柱はさらに、自らの首筋に残る拘束具の痣を掻きむしるように指を立て、血を吐くような悲壮な旋律をぶつけてきた。

「〈sasise karasen keres sasia karaskor〉……!」

 複雑な母音と流音が折り重なる翠響語(セルヴァ)の響きが、石造りの小屋の空気をビリビリと震わせる。

 胸を掻きむしり、涙を次々と零しながら放たれるその声が、どれほど切実な絶望や嘆きを訴えているのか、その言葉を知らないニコには一語たりとも理解できない。

 しかも――ニコの耳元に引っ掛けられた安物の量産型翻訳魔導具は、激しすぎる感情の波形を処理しきれずに赤いエラー光を点滅させ、少年の悲痛な声をすべて塗り潰すように、冷徹な機械音声でこう上書きしたのだ。

『〈苦情申立:コノ肉ハ規定ヨリ硬イデス。調理工程ニ重大ナ欠陥ガアリマス。即時ノ改善ヲ要求シマス〉』

 

 ニコはフォークを止め、呆れたように半眼で人柱を見つめた。

 目の前の長命種の若者は、涙をボロボロと零しながら、今にも世界の終わりが来たかのような悲壮な形相で皿の上の干し肉を睨みつけている。

「……お前、泣くほど飯の好みがうるさいのか」

 ニコは大きく肩をすくめ、苦笑を漏らした。

「悪かったな。保存用の塩漬け肉だ、筋張ってるのは仕様だよ。そんなに文句があるなら、次はもう少しマシな食材を街で仕入れてきてやる」

 ニコが立ち上がり、自分の分から比較的柔らかそうな脂身の多い肉片をナイフで切り取って、人柱の皿にぽいと乗せた。

 今度は人柱の方が目を丸くした。

 身を裂くような叫びをぶつけたはずなのに、目の前の男はなぜか溜息をつきながら、追加の肉を分けてくれたのだ。涙が引っ込み、人柱は呆気にとられたまま、湯気を立てる肉片とニコの無表情な顔を交互に見比べた。

 

「……? 〈rares〉……?」

 拍子抜けしたように人柱が首を傾げて呟くと、ニコの魔導具が『〈質問:追加料金ハ発生シマスカ〉』と訳した。

「発生しない。食ったら皿を洗え、それでチャラだ」

 ニコが乱暴に手を振って見せると、そのあまりにも俗っぽく穏やかな身振りに、人柱の張り詰めていた神経からふっと力が抜けた。

 言葉は致命的なまでに食い違っている。それでも、この男が自分を害そうとしていないこと、そして差し出された肉が温かいことだけは、どんな魔導具のバグにも歪めようのない事実だった。

 

 食事を終えた後、人柱はテーブルの木目に指先を這わせ、少しだけ迷うような素振りを見せてから、自分の胸にそっと手を当てた。

 それからニコの瞳をまっすぐに見つめ、澄んだ声でゆっくりと音を紡いだ。

「〈ramel zemor Saraelos〉」

 ニコの魔導具がジジ、とノイズを鳴らす。

『〈個体識別番号:サ・ラ・エ・ロ・ス。登録カテゴリハ未定義デス〉』

 固有名詞だけは、安物の魔導具でもそのままの音で透過されたらしい。

 だが、今度は機械の翻訳など必要なかった。自分の胸に手を当て、誇りと祈りを込めるように紡がれた『サラエロス』という響き。それが、追手たちが呼んでいた『人柱(ラッソヴェル)』という冷たい記号ではなく、彼自身が取り戻した「本当の名前」なのだと、ニコにも直感で分かったからだ。

 

「サラエロス、か。人柱って呼ぶよりは、いくらかマシな響きだな」

 ニコは自分の胸を親指で軽く指した。

「ニコだ。ただのしがない旅人だよ」

 人柱――サラエロスは、首輪のノイズの向こうにあるニコの生の声色を直接聞き取ろうとするように耳を澄ませ、その短い音節を唇の上で何度も転がした。

「……ニコ」

 翠響語の柔らかな発音で紡がれたその二音は、共通語の平坦な響きとはまるで違う、小さな鈴を鳴らしたような温度を持っていた。

 その瞬間、またしても部屋の隅の戦槌がかすかに震え、サラエロスの鎖骨の下に刻まれた紋様が淡い翠光を放った。

 二人の間に、言葉の定義を超えた奇妙な静寂と、確かな共鳴の余韻が流れていた。