第4話 禁忌の波形、封じられた神槍

読了目安:約5分(3,115字)

 境界街からの帰り道、夕闇が迫る古森の石橋に差し掛かったところで、空気の質が変わった。

 風音がぴたりと止み、鳥や虫の気配が消え失せる。

 ニコは歩みを止め、サラエロスを自分の背後に庇うように立たせた。

「……大通りでの一件、完全に誤魔化しきれたわけじゃなかったらしいな」

 

 木々の梢や霧の立ち込める岩陰から、音もなく十数人の影が降り立った。

 最初の夜に森で遭遇した末端の追手とは纏う空気の密度が違う。純白の法衣に防音仮面を着けた、中央教導院の特務執行部隊――通称『調律師』たちだった。

「『対象を確認。脱走検体、および未登録の干渉者』」

 部隊長らしき男が一歩前に出て、銀色の音叉のような魔導杖を構えた。

「『これより広域概念凍結を実行する。すべての波形を停止せよ』」

 

 調律師たちが一斉に共通語の圧縮詠唱を開始した。

 『静止(フリーズ)』『沈黙(サイレンス)』『従属(サブミット)』――幾重にも重ねられた平坦な概念の暴風が、不可視の障壁となって石橋の上の二人を押し潰そうとする。

 ニコは舌打ちし、肩に担いだままの戦槌(ポールハンマー)の柄を片手で振り抜いた。

 ごうんッ! と大気が爆ぜ、鉛の塊のような物理質量の一撃が概念の暴風を強引に叩き割る。衝撃波だけで前列の調律師三人が木の葉のように吹き飛んだ。

 だが、封印具で幾重にも縛られた戦槌は本来の力を十全に発揮できず、残りの調律師たちが間髪入れずに第二波の概念拘束網を展開した。

 幾何学的な灰色の光の鎖が地面からせり上がり、ニコの四肢と戦槌に幾重にも絡みつく。

「くそっ、数が多すぎるか……!」

 ニコが片膝をついた隙に、別働隊の刺客が音もなく跳躍し、サラエロスの首筋へ捕縛用の魔導針を突き立てようと迫った。

 

「逃げろ、サラエロス!」

 ニコが叫ぶ。首輪を通じて届く音は無機質な警告音だったが、ニコが血走った目でこちらを振り向き、概念の鎖に肉を裂かれながらも自らを盾にしようと足掻く姿は、どんな翻訳よりも鮮烈にサラエロスの網膜に焼き付いた。

 刺客の刃が目前に迫る。

 その刹那、サラエロスは逃げるのではなく、自らの首筋に両手をかけた。

 これまで自分の言葉を歪め、世界の音を灰色のノイズに変え続けてきた検体用の翻訳首輪――その留め具に指を食い込ませ、皮膚が裂けて血が噴き出すのも構わず、力任せに引き千切った。

 

 バチィッ! と青い火花が散り、砕けた首輪が石畳に転がる。

 機械のフィルターと出力抑制の枷が消え失せた世界で、サラエロスは胸の奥底から湧き上がる熱をそのまま声に変えた。

 それは今の翠響語ですらない。故郷の祭壇の最奥、秘儀の源流にだけ密かに伝えられていた、世界の始まりの言葉――始原共鳴語(プロト・セルヴァ)の絶唱だった。

 

「〈shaashi shaashiaa sheshi kaaraashkor〉――!!」

 ――共鳴の魂よ、封印を砕け!

 

 その声が放たれた瞬間、森全体の大気がガラスのようにビリビリと震え上がった。

 ニコの耳元の魔導具が『〈計測不能――計測不能――〉』と悲鳴を上げて煙を噴く。

 そして、ニコの背中で眠っていた巨大な戦槌が、まるで千年の眠りから呼び覚まされた竜のように咆哮した。

 バキン、ガシャアアンッ!!

 幾重にも巻かれていた黒い革帯が焼き切れ、分厚い鉛と黒鉄の装甲が次々と弾け飛んでいく。無骨で醜い戦槌の外殻が剥がれ落ちたその中心から現れたのは、眩いばかりの翠光を纏った一振りの細長い『神槍』――〈sasivin karasor(光の槍)〉だった。

 

「……ッ、この響きは……!」

 ニコの瞳が見開かれた。

 サラエロスが放った始原の言葉『shaashi(共鳴)』の波形は、かつてニコが英雄として戦場を駆け抜け、世界を滅ぼしかけた『大いなる災厄』を封じた時に聞いた、「禁忌の歌」とまったく同じ周波数をしていた。

「〈Zaarveal shaashivin shaashieal zhemshen〉!」

 ――沈黙の英雄(ザールヴェアル)よ、光の歌を聴け!

 サラエロスの全身の紋様が眩く輝き、神槍の穂先と光の糸で結ばれたように共鳴する。

 

 ニコを縛り付けていた調律師たちの概念拘束網が、共鳴の奔流に触れただけで乾いた泥のように崩れ去った。

 ニコは立ち上がり、白光を放つ神槍の柄を両手で握りしめた。凡庸な旅人の仮面が剥がれ落ち、かつて神話と恐れられた英雄の覇気がその全身から立ち昇る。

「……やれやれ。せっかく重たい鉛を着せて、大人しく隠居してたってのによ」

 ニコが神槍をひとたび一閃すると、音を超えた翠の閃光が夜の森を切り裂いた。

 刃は誰の肉体も傷つけない。ただ、調律師たちが纏っていた共通語の魔導障壁と音叉杖だけを正確に粉砕し、その圧倒的な共鳴圧だけで十数人の精鋭部隊を一瞬にして意識の底へと沈めた。

 

 嵐のような光が収まった後、石橋の上には砕け散った魔導具の破片と、倒れ伏した調律師たちだけが残された。

 だが、静寂は訪れなかった。

「……っ、あ、あぁ……!」

 サラエロスが苦悶の息を漏らし、石畳の上に膝から崩れ落ちた。

 首輪というリミッターを強引に引き千切り、生身の喉で『始原共鳴語』を放った反動だった。彼の鎖骨から腕にかけて刻まれた紋様が、まるで赤熱した鉄のように過剰発光し、彼自身の血管と神経を内側から焼き焦がし始めていた。

 ニコは咄嗟に駆け寄り、倒れかけたサラエロスの肩を抱き留めた。掌を通して、火傷しそうなほどの異常な高熱が伝わってくる。

 

 さらにその時、北の空――かつて長命種の神殿であり、今は教導院の中枢演算塔が置かれた『旧聖堂跡』の方角から、地鳴りのような低周波の脈動が響き渡った。

 ズウウウン……! と夜空に灰色の幾何学模様の波紋が広がり、石橋の周囲の木々や足元の水たまりから急速に色彩と音が奪われていく。葉擦れの音が消え、空気そのものが鉛色の霜に覆われたように凍りつき始めたのだ。

「……北の旧聖堂にある基幹演算塔『律動炉』か。今の始原の波形と、俺の槍の解放を感知して、森ごと緊急の概念凍結を起動しやがったな」

 

 ニコは奥歯を噛み締め、手の中の神槍を見つめた。

 かつて世界を焼き尽くしかけた『大いなる災厄』――それは暴走した始原共鳴語の連鎖だった。その災厄を自らの手で封じ、二度と力を使わぬよう槍を鉛で縛り上げたニコにとって、目の前で熱に喘ぐ少年は、本来なら再び封じ込めなければならない「災厄の火種」そのもののはずだった。

 だが、熱に浮かされながらも、サラエロスは震える指先を伸ばし、ニコの無骨な指にそっと触れた。

 首輪はもうない。だからサラエロスの耳には、ニコの荒い呼吸も、低く掠れた地声も、初めて機械のノイズを介さない「ひとりの人間の生の音」として届いていた。言葉の意味は分からなくとも、この傷だらけの男がどれほどの痛みを背負って自分を守ってくれたのか、その手の温度だけで痛いほど伝わってきた。

 

 ニコは短く息を吐き、迷いを振り払うように神槍の冷たい穂先をサラエロスの赤熱する紋様へとそっと押し当てた。

 バチッ、と翠の火花が散り、サラエロスの身体を焼いていた暴走熱の半分が、神槍を通じてニコ自身の肉体へと流れ込む。血管を鉛が駆け巡るような激痛にニコの眉間が歪んだが、そのおかげでサラエロスの呼吸がわずかに楽になった。

「……死ぬなよ、サラエロス。お前のその暴走を止め、この森の凍結を解除するには、大元である北の旧聖堂の『律動炉』を直接叩き割るしかねえ」

 ニコは神槍を片手に持ち直し、熱に喘ぐサラエロスの軽い身体を自らの背中へと背負い上げた。

 背中に伝わる少年の鼓動と、まだ半分だけ残った戦槌の鉛の重み。

 ニコは灰色の霜が降り始めた夜の森を踏みしめ、脈動する北の旧聖堂跡へと真っ直ぐに歩み出した。