北の旧聖堂跡は、かつて長命種の祖先たちが星と歌を祀った神殿であり、今では中央教導院が『共通語』の基幹回路を張り巡らせた巨大な演算塔へと改造されていた。
凍てつく灰色の概念霜を踏み砕き、扉を蹴り開けて大広間へ踏み込んだニコとサラエロスを、純白と金の法衣を纏った男――教導院の最高幹部である大調律官ヴァルディスが見下ろしていた。彼の背後には、巨大な水晶の『律動炉』が不気味な灰色の光を脈打たせ、サラエロスの紋様から漏れる波形を強制的に吸い上げようと唸りを上げている。
「『よく来た、欠陥だらけの旧時代の遺物よ』」
ヴァルディスは一片の感情も宿らない、しかし大広間全体を共鳴箱にするような威圧的な共通語で告げた。
「遺物はお互い様だろうが、ヴァルディス。森の空気まで灰色に凍らせやがって、ずいぶんと大層な歓迎だな」
ニコはサラエロスを柱の陰に降ろし、装甲の半ば剥がれかけた神槍――戦槌の鉛の外殻を一部だけ残した異形の槍を構えて不敵に笑った。
ヴァルディスは細い目をわずかに細め、ニコの手にある神槍を指し示した。
「『かつて世界を滅ぼしかけた『始原の災厄』を封じた沈黙の英雄ニコ。貴様自身が、誰よりもその言葉の危険性を知っていたはずだ!』」
ヴァルディスの声に、初めて冷徹な使命感の熱が宿った。
「『あの災厄の正体は何だった? 人の強すぎる感情と、魂を直接揺さぶる『始原共鳴語』の連鎖暴走だ! 心と言葉が共鳴し合えば、人は愛と同じだけの憎悪と悲哀を際限なく増幅させ、互いの魂を焼き尽くす。貴様はその地獄を自らの目で見たからこそ、神槍を幾重もの鉛で封じ、自らの声すら共通語の灰色に沈めて隠遁したのではないか!』」
その言葉は、ニコが長年胸の奥底に封じ込めてきた最大の古傷を正確に抉った。
かつての戦場で、美しかったはずの共鳴の歌が狂気と呪詛の嵐へと変わり、幾つもの街が涙と絶叫の共振の中で自壊していった記憶。あの日、槍を鉛で縛ったのは他でもないニコ自身だった。
ヴァルディスが両腕を広げると、背後の律動炉が轟音を立てて回転を速めた。
「『だからこそ我々は、共通語によって心という名のバグを削ぎ落としたのだ! その検体――サラエロスの始原の波形を炉に統合すれば、共通語の網は完全に固定される。二度と誰も憎み合わず、誰も傷つかず、誰も涙を流さない、完全なる無音の楽園が完成するのだ!』」
ニコは神槍の柄を強く握り直し、口の端を歪めて笑った。
「……ああ、そうだな。お前の言う通りだ、ヴァルディス。俺はかつて言葉の暴走を恐れて、自分の槍に鉛を着せた。他人の心なんか知らねえ方が、ずっと楽に生きられると思ってたさ」
ニコはちらりと背後を振り返り、暴走熱に肩を震わせながらも真っ直ぐに自分を見つめているサラエロスの翠の瞳を見た。
「だがな、この数日、言葉の通じねえ迷い子と泥の中を歩いて、硬い干し肉を分け合って、焚き火に当たりながら思い出したんだよ。――確かに言葉は暴走するし、心が通じれば人は不器用に傷つけ合う。けれど、痛みを恐れて心を鉛で塗り潰したお前らの墓場を、俺は平穏とは呼ばねえ! バグだらけでも、手探りで歩く道を俺は選ぶ!」
「『愚かな。ならばその旧時代の感傷ごと、ここで規格化してくれる!』」
律動炉から放たれたのは、共通語を極限まで高密度に圧縮した『概念攻撃』だった。
『虚無』『規格化』『完全沈黙』――!
黒い鉛のような言葉の奔流が、大広間の空間そのものを塗り潰しながら二人の精神を直接平坦化しようと襲いかかる。
「させるかよッ!」
ニコが地面を蹴り、サラエロスの前に立ち塞がった。
神槍を大車輪のように振るい、降り注ぐ概念の奔流を真っ向から受け止める。鉄と概念が激突し、凄まじい火花と衝撃波が白亜の石畳を砕いた。
ギギギ、とニコの全身の骨が軋み、口の端から血が滲む。共通語の統制に完全には染まらないニコの脳髄に、高濃度の『平坦化』の猛毒が直接突き刺さる。
その背後で、サラエロスもまた律動炉の重力場に引きずり込まれそうになりながら、血の滲む唇を開いて必死に声を振り絞った。
「ニコ……! 〈ramel sasivil karaskos〉……!」
――私の声で、あなたを守る……!
その時だった。
始原の波形と律動炉の概念圧の板挟みとなり、過負荷に晒され続けていたニコの耳元の翻訳魔導具が、限界を迎えてピピピッ! と狂ったような警告音を上げた。
『〈警告:言語定義ファイル破損――翻訳不能――この肉は硬い――天候は晴天――燃焼効率ハ適正――廃棄処分――再起動不能――〉』
これまでの旅路の滑稽な誤訳を走馬灯のように撒き散らした末、耳元の安物の魔導具がパチン! と音を立てて完全に破裂し、小さな破片となって石畳に散らばった。
翻訳機能が、完全に停止した。
これまでずっとニコの耳元でジジ、と不快なノイズを鳴らし続け、少年の声を無機質な事務用語へと塗り潰していた機械のフィルターが、跡形もなく消え失せた。
その空白の鼓膜に――初めて、何の媒介も経ないサラエロスの「生の声」が直接飛び込んできた。
「〈ramel sasivil karaskos〉――!」
ニコは息を呑んだ。
意味は分からない。辞書的な単語の定義など、一語たりとも理解できない。
だが、機械の合成音が消えた耳に初めて届いたその少年の本当の声は、なんと澄み切って、なんと痛々しいほどに熱い旋律だったか。
震える吐息の温度、喉の奥で鈴のように跳ねる母音の輝き、そして自らの喉が裂けるのも厭わずにニコの背中を支えようとする祈りの響きそのものが、フィルターなしで直接ニコの鼓膜を震わせ、凍りつきかけていた魂の奥底を激しく揺さぶったのだ。
ニコは口の端の血を乱暴に拭い、振り返ることなく、これまでで最も力強い生身の声で吠えた。
「今は何も考えるな、サラエロス! 意味なんて通じなくていい、お前のその『音』を鳴らし続けろ!!」
その共通語の叫びには、もはや教導院の規律など微塵も残っていなかった。
意味としての単語は分からなくとも、ニコの背中から伝わる圧倒的な覚悟と、槍を握る手の震え、そして声に宿った剥き出しの「魂の熱」が、サラエロスの胸を直撃した。
不完全な機械の翻訳を超えた、純粋な生身の共鳴。
サラエロスの瞳から迷いが消え、暴走していた紋様の赤熱が、澄み切った黄金と翠の極光へと変わっていく。
彼は立ち上がり、ニコの背中にそっと自らの両手を重ねた。
「〈zam nenel zemvar〉……!」
――あなたの沈黙は、こんなにも温かい音だ!
そしてサラエロスは、肺の空気のすべてを振り絞り、始原の咆哮を解き放った。
「〈shaashi shaashiraal keresh zhem kaaraashkor〉――ッ!!」
――共鳴の波形よ、鎖の言葉を打ち砕け!!
サラエロスの澄み切った歌声と、ニコの無言の咆哮が、完全に一つの波形へと重なり合った。
神槍に残っていた最後の鉛の拘束具が粉々に砕け散り、天を衝くような翠の光の柱が聖堂の天井を突き破って夜空へと噴き上がった。
「『ば、馬鹿な……! 翻訳も統制も介さず、異なる言語の魂が暴走することなく直接調和し、出力を増幅させているだと……!?』」
ヴァルディスが驚愕に顔を歪め、最大出力の概念障壁を幾重にも展開する。
「終わりだ、ヴァルディス! 歩きにくい道だが――こいつと生の声を聞きながら歩くほうが、お前らの無音の楽園よりよっぽどマシなんでね!」
ニコが踏み込み、サラエロスの歌を宿した神槍を渾身の力で突き出した。
放たれた『沈黙の咆哮(サイレント・レゾナンス)』の奔流が、灰色の概念攻撃を真正面から呑み込み、ヴァルディスの障壁ごと背後の巨大律動炉を一刀両断に貫いた。
ズガアアアアアンッ!!
眩い光の爆発が大広間を満たし、中央教導院が築き上げた精神統制の基幹回路が、美しい翠色の光の粒となって砕け散っていった。
爆風の中で、すべての力を出し尽くしたサラエロスがふらりと倒れかかる。
ニコは神槍を床に突き立ててその細い身体を片腕でしっかりと抱き留め、崩れ落ちる律動炉の残骸と、天井の穴から差し込む夜明け前の星明かりを静かに見届けていた。